この地域から銅が採れたという一番古い話は、「東大寺(752年開眼)の大仏を造るとき、材料となる銅の一部は能勢から採られた」というものです。しかし、正式には、「1037年に摂津の能勢から初めて銅が献じられた」という『百錬抄』という文書の中です。そして、銅が採掘された場所に採銅所というお役所を設けて、本格的に銅の採掘がはじまりました。

さて、採銅所の役所はどこにあったのか。今ではもう、資料や語り伝えられる話もないのですが、豊能町史によると、採銅所が設けられてから150年以上も後の出来事から、この採銅所のあった場所を推定しています。話はこうです。源氏が鎌倉に幕府を開いて間もない1200年の2月に、真空というお坊さんがお寺を建てることを祈願し、1207年にめでたく仏照寺というお寺が完成したというのです。そのお寺は、お堂がいくつもあって、また、多くの仏像も安置されていたと記されています。

このお寺は仏照寺と名づけられ、完成したときの文書が今も残されています。それによると、お寺を建立した真空というお坊さんは、「自分は摂津の与野(余野)山で生まれたが、そこは、のどかな田舎で草木が生い茂り、鹿の群れが出没し、村人たちが猟をしたり、また、遠くからは、木こりの歌が聞こえてくるような場所で、山すそには、かやぶきの家があり、川で釣りをしている人や田畑を耕している人がちらほら見かける。しかし、この村にはお寺がないので、建立することを祈願した。」と語っています。そして、このお寺を採銅所で働く人たちの安全を祈る祈願所としました。これはとりもなおさず、近くに採銅所があったものと考えて間違いないこことです。
では、この仏照寺は、余野のどこにあったのでしょうか。勝手な推論を立てるならば、古地名で堂前と呼ばれている城山高校の横辺りが候補地の一つと考えられるのではないでしょうか。それにしても、千年近くも前にこの地に国の大きな役所が設けられていたとは不思議な気がいたします
与野山の候補地の一つ?