「豊能町に生まれた歴史上の人物で誰がいちばん有名ですか」と問われれば、誰しも「高山右近」と答えるのではないでしょうか。高山右近は、日本の歴史上に名をとどめる豊能町出身の唯一の人物で、戦国時代に少し興味ある人ならばその名を知らない人がいないくらい有名です。

しかしながら、右近の幼少期については資料も少なく不明な点も多いのですが、摂津の高山(豊能町高山)が彼の出身地であるということは間違いのない事実です。しかし、高山にはそれに関する資料は残されていません。

では一体、そのように有名な人物であるのにどうして何も残っていないのでしょうか。ここで高山右近について少し整理します。彼は、フランシスコ・ザビエルによってキリスト教が日本へ伝えられた3年後の1552年(天文21年)に生まれたとされています。当時は戦国時代のまっただなかで、右近の父親も小さな領主として戦いに明け暮れていました。そんな時、彼の父親はキリスト教に出会い信仰するようになります。そして、右近も13歳のときに洗礼を受けキリシタンとなります。しかし、他のキリシタン大名と同じく戦国大名として各地で戦います。彼は織田信長や豊臣秀吉に仕え、33歳の時には明石6万石の大名と出世します。その後キリスト教が禁止されますが、最後まで教えを捨てなかったので、一族の人々と共にフィリピンに流されてしまいます。そして、1615年63歳の寿命をフィリピンのマニラで終えます。今改めて振り返ってみると、右近は地位も名誉も捨てたが、最後まで信心と信念を捨てなかった、わが町の誇れる偉人ということができます。



 さて、右近に関する高山での詳しい資料はないといいましたが、右近の住んでいたお城といわれる城山、キリスト教を礼拝したというオラトリオ跡、地名としてヘライの辻、マリアの墓、キリスト教禁教の高札と右近の活躍した証としてのいろんなものが伝承として今に伝えられています。